「ハラスメント、ダメ、ゼッタイ!人間失格!かっこわるい!」という言説を見るたびにどきりとする。
一方で「どこからハラスメントなんだよ全然わからんー!ハラスメントハラスメント(ハラスメントだ!と指摘することがハラスメント)だよー」という言葉には、なんか全然共感しない。どこまで人を記号で見たら気がすむんだろう、と思ってしまう。セクハラもパワハラも、理不尽だし、おかしいし、被害者が泣き寝入りする社会ってやっぱり変だ、と思う。
でも、それでもわたしは、ハラスメントを自分がしてしまうかもしれない、といつも思う。どきりとする理由はそれだ。
わたしは知らないことがある。
知らない人がいて、知らない世界がある。体調が悪い時もあるし、推し量れないこともある。相手を知らずに傷つけてしまうことがある。「ダメ!ゼッタイ!」とくくるには、あまりにわたしは、世界を知らない。
だから、わたしはいつか「ハラスメントするわたし」に出会うんじゃないかって、いつも思う。
でも、ハラスメントをしてしまったあとに、「さっちん。実は、あれは嫌だったんだ」と表明されやすい自分でありたい。そういうことが言える関係性を日頃から築きたい。そして表明されたあとに、詳しく話を聞ける自分でありたい。勇気を持って言ってくれたことに、真摯でいたい。その詳しい話に納得したら「ごめん。そういうことをしてしまう自分はよくなかった。」と明確に謝りたい。そして二度としないようにしたい。
わたしも知らずにハラスメントしてるかもしれないなぁ、って、いつも思うのです。その人じゃなくてその人を記号で見てしまうことがある。
だから常に「さっちん、実はあれはいやだったんだ」って気持ちを相手から表明されやすい自分でありたいし、そういう関係性でありたい、というか。
— さっちん@D×P広報/資金調達マネジャー (@sachiiritani) April 26, 2018
「ハラスメントするわたし」に出会うことを、必要以上に恐れなくても、大丈夫。地雷ワードや地雷行動がたくさん世の中に転がっててひとつ踏んだら終わり…!なんて、思わなくていい。だってそれは地雷じゃなくて、ひとりの人間だから。わたしだってひとりの人間だから。
話そう、伝えよう。
関わることを諦めずにいよう。
怖がらずに。
そして、「ハラスメントしたやつ」というラベリングだって、ごめんと言って丁寧に反省したら、ちゃんといつかそのラベルが剥がれる寛容な社会をつくりたいよ。