「こういうことをするということは、こういう価値観を持っているはずだ」の罠

娘が乳児だったころ。

近所に住むおばあちゃんは、私と娘が道を通るたびに声をかけてくれた。笑顔のほがらかなやさしいおばあちゃんだった。けれど、娘がちょっとでも私を求めるようなしぐさをすると

「あらあらやっぱりお母さんがいいのねえ」

と彼女から言われることがあった。「いえ、そのときによるんですよ。お父さんも大好きですし、近所の方にくっつくときもありますよ」と笑顔で返すと、「あら、そーお?ふふ」と返された。

 

保育園からの帰り道。私が自転車に娘を乗せてうちまで帰ると、水やりをしていたおばあちゃんが声をかけてくれた。「あら、おでかけしてきたの?」と言うので、「いえ、保育園から帰るところです」と返すと

「あらあ、こんな遅くまで保育園にいたの?かわいそうねえ。」

と大声で言われ、次は娘のほうを見て、「ほんとにねえ、かなしいわよねえ〜!」と赤ちゃん言葉で話しかける。流石に夕方に差し掛かって仕事終わりでちょっと疲れていたけど、自然と笑顔が出た。「保育園、すっごく楽しかったみたいで。お友達と同じペースで遊ぶのはやっぱり楽しいみたいですね」と返すと、「あら、そーお?ふふ」と返された。

 

5年。

わたしは、このおばあちゃんとずっとこのやり取りをしてきた。同じようなやりとりを、何度も。何度も。ずっと繰り返してきた。彼女は次第に、わたしのことを「さちさん」と呼び、娘のことを「◯◯ちゃん」と名前で呼ぶようになった。彼女が「保育園かわいそう」と言うのは止まらなかったし、「お母さんがいい」も言うし、「母乳?ミルク?母乳いいわよね」とかもしょっちゅう言う。私が「東京出張に行ってきた」というと口が開いて閉まらなくなったこともあった(笑)

ちょっと違う意見が彼女の口から出てくるたび、私は笑顔でやんわりと「いいえ」を伝えた。

でも、彼女は、近所に住む「さちさんと◯◯ちゃん」親子が大好きだった。

「あなたたち二人の顔を見るとほっこりするわ」

と満面の笑みをこぼした。私と娘は、この笑顔が大好きだった。それで、よかった。

 

「こういうことをするということは、こういう価値観を持っているはずだ」と、つい、思ってしまうことがあると思う。こういう仕草をするということは、こういう言動をするということは、こういう扱いをするということは、私とは違うこんな価値観を持っている人だ!と思ってしまう。そして、「そんな価値観を持っているわたしとあなたは、相容れない」と思い込んでしまうことがある。敵認定。

でも、価値観が違っていたって一緒に生きていくことはできると思う。

「あなたは、そうなんですね。わたしは、こうなんです」と言えばいい。なんにも伝わらないかもしれない。私は、5年経っても特に理解されなかった。でも、おばあちゃんと道端で話すのはなにより心が元気になったし、近所の情報もたくさんもらったし、お庭のきれいなお花を見せてもらう時間が好きだった。彼女の子育ての話を聞いていると、いかに乳幼児期の子育てが幸せだったかが伝わってくる。本当に楽しい時期だったそうなのだ。

(西村さんのこのツイートは、私が本当に大切にしている言葉です。この場面だけじゃなくて、色んな場面で、いつもこの言葉を思い出します)

 

インターネットを開けば、同じような価値観の人には簡単に出会える。つながりあえるし、共通言語でやんややんやと語り合える。それは安心感を得られるし、ほっとする。でも「その地に住む人」というくくりだと、本当にいろんな人に出会う。

 

「こういうことをするということは、こういう価値観を持っているはずだ」と、いいたくなるのはわかる。それで人を判断したり、敵認定したくなるのも、攻撃したくなるのも、わかる。でもそこには、断絶の罠がある。

そのときに

「大丈夫。この人は私を排除したいわけじゃない。共に、暮らせる」

と。魔法の言葉を一声、自分にかけてみてほしいのだ。

 

これで分かり合えるようになりますよ〜!とは、思わない。

でも、きっと「うまく」いく。

 

(※たまに、排除したいみたいな感じの人もいるけどね!笑。そこまで来たらスルーしましょう)