泣き虫だった頃のこと。新卒フリーランス/アシスタント時代の「やるべき」の積み上げ

4月になるとTwitterには、「新入社員に向けたメッセージ」に溢れるように思う。

逃げろ、逃げるな、言え、言うな、辞めろ、辞めるな。様々なメッセージは、ひとりひとりの人生が凝縮されてて、読むたびにほんのちょっとのおせっかいと真なる愛情を感じる。

いろんな人がいろんなことを言うのは、みんなそれぞれの人生があり、そこから学んだこともまた違うからだ。 だからたまに、自分の経験をすべてのひとに当てはめるように言う人もいるけど、そういう時は脳内で「この人は、こうだったんだなぁ」って変換したらいいと思う。

いろんな人がいろんなことを言う。でも、自分にとっての「この人」を見つけて大事にしていたらいい。無数の人生の無数のメッセージを目にしながら、わたしはそんなふうに思う。

今から書くのは、入谷佐知というひとりの人の、新社会人だったころのひとつのエピソードである。

22歳の時、大学を卒業したわたしの就職先は決まっていなかった。フリーランスとして生きてみることだけは決まっていた。

その時の愛読書はこれ。

…と言いたいところですが、何度も開いて勉強させていただいたのはこれ。

きたみりゅうじさんに感謝。。とにかく荻窪の税務署でいちおうの開業届を出す。生暖かい風。Facebookとmixiに溢れる卒業報告。引っ越し報告。同期と飲み会。

後悔はない。でも自分が今いるところが危うくて泣きたくなるぐらい不安にかられた。住民税も高い。周囲には強気の言葉しか出さなかったけど、うちでは毎日泣きながら必死にパソコンに向かった。

運良く3社に拾ってもらい、それぞれと業務委託契約を結ぶ。(当時、ビヨンド株式会社のイケメン社長・一谷さんは本当に気にかけてくれて、何者でもないわたしを買ってくれていて本当にありがたかった。いつか一谷さんには恩返ししたい。。)

そのなかでいろんな経緯があって、株式会社アムの岡本佳美さんに拾ってもらった。わたしの、生涯の師匠である。NPO法人フローレンスの理事で、元副代表。フローレンスの初期の広報を支えたのは紛れもなく彼女だった。ブランド経営コンサルタントとして、一人でアムを切り盛りする彼女は、営利/非営利ともにブランド戦略の案件を取り扱っていた。わたしは、彼女の「アシスタント」のように働くことになる。

 

ちなみにアシスタントは今は時流らしい

 

アシスタントナイトなんていうイベントまであるし…!

(アシスタントは「これからの新しい働き方」らしい…。8年前にアシスタントやってたわたしはちょっとうれしい…!泣いちゃう…!全然知り合いの方いないけど正直親近感しかない)

 

当時わたしは、それでもそれなりに自分は仕事ができると思っていた。それなりにインターンもアルバイトもしてきたし。その仕事を評価して師匠は採用してくれたんだし。ちょっとふんぞり返っていたと思う。

蓋を開けたら散々だった。議事録ひとつ書けない。文章も書けない。スケジュールも引けない。メールも突っ込まれる。プレスリリースは真っ赤に添削。なんだこれ。ミーティングひとつひとつに、ついていけない。必死で本を読み、ニュースを読む。頭に入らない。師匠が一番苦労しただろう。苦労してる様子も手に取るようにわかるから情けなくなる。

今だから思うけど、真っ赤に添削するのだってパワーがいる。師匠は全力でわたしを信じて向かっていてくれたのだ。

師匠からは「で?」「うん。で?」「つまり?」の嵐。

で、で、で、で、で、わたしは、なんだったんだっけ?わたしは、どうしてこんなに役に立てないんだっけ?そもそも、わたし、広報とかブランド戦略とか向いてなくない?わたしは元々児童養護施設で働きたいって思ってたんじゃなかったっけ?

そう。それでも。

それでもわたしはやり続けた。

周囲からの、自分からの、「向いてないんじゃない?」の言葉にそっぽを向いた。自分の目の前に降ってきたものに、ただひたすらに取り組んだ。ただ手が動いた。泣きながらタスクを洗い出して、泣きながらドキュメントを書いた。ほんとにそれだけだった。この仕事は好きだったし、楽しかったし、尊敬できる経営者さんにもいっぱい出会えた。でもそんな理性的な理由よりも、ただ手が動いた、というそれだけだったような気もする。

いま、もし今のわたしがあの時のわたしに出会えたら、「そんな泣くならやめなよ」って言うかもしれない。でもそれでもわたしは、その言葉にも「うるせーバカ」って言ったと、思うんだ。

あのときの私は何より頑なだった。ただ、自分の目の前に振ってきた「やるべきこと」を、大切に抱えていた。いまは「やりたいことをやる」という言葉がSNSで溢れているし、私も大切にしているけれど、当時「やるべきこと」をひたすらやっていた私は、とても陳腐な事象に駆られているように感じられた。

でも、不思議と「やるべきこと」をやっていくと「できること」が増えていった。できることが増えると、「やってみたいこと」も増えた。

ひとつの山を超えると、今まで森の中を歩くだけは見えてこなかった別の山が見えるように。別の山が見えると、今度は、あの山を登ってみたいと思うようになった。この山を超えると、また別の山が見える。どんどん見えるようになる景色に、ただ胸がいっぱいになった。

いま、わたしの両手には、やりたいことがたくさんある。

 

 

「やりたいこと」

というきらめく言葉に
人はとらわれがちだけど、

「できること」

を増やさないと、
やりたいことも皮相なまま育っていかない、
面白くならない。

大人の小論文教室

 

最初から、10代の頃から、「やりたいこと」が先行して生きている人もいる。

でもわたしの出だしはそこじゃなかった。なんとなく縁あってやるようになったことが、次第に「やるべきこと」になり、頑なにやり続け、「できること」になり、最後にたくさんの「やりたいこと」が生まれた。もちろん、その「やるべきこと」のなかに、周囲からのイジメとか理不尽な状況とかがあったらやっぱり逃げて欲しいって思う。そこで頑張るのは大切なものを失ってしまうから。

でも、もし目の前に、一緒に働きたいとかこの人の役に立ちたいと思える人がいたりとか、やってみようと思える縁が降ってきたなら、まず「やるべきこと」からやってみたっていいと私は思う。やりたいことなんていくら考えてもわかんないよ。鬱蒼とした森の中にただ佇むだけでは見えない景色があるのと同じように。

 

「いま、わたしの両手には、やりたいことがたくさんある。」と書いた。確かにそうだ。でも、まだできるようになっていないこともたくさんある。今はないけど、これから見えてくるはずの「やりたいこと」だってきっとあるはずだっていう、そんな気分なのである。

入谷佐知の泣き虫時代の話は、ここまで。

最後に、蛇足かもしれませんが。

私の今の仕事では「やりたい」「やりたくない」はもちろん、「ひとまずやるか」とか「動くか」とか「頑張ろう」とか、そういったスタートラインにすら立てない10代に出会う。あの時「うるせーバカ」と言えて泣きながら頑張ってた自分が、いかに自分だけの力で頑張っていたんじゃなかったかということを、思い知らされる。

経済的基盤もなくて、身体にも不安があって、誤解されやすい特性を持ってて、住むところも不安定で、頼れる人もいなければ。人を信頼できなくなるような経験があって、心を閉ざしていれば。やりたいことはもちろん、やるべきことに出会うような縁をつかむことも、やるべきことを頑張ることも、できなかった。

私は今の仕事に出会えてよかった。
最近いつもこの結論になる。

そろそろ師匠といた時代よりもDxP時代のほうが長くなる。