「あたし おかあさんだから」の歌がインターネット上で批判を受け、のぶみさんが謝罪するという一連の出来事を見ながら胸を痛めた1週間。
先日、たまたま手に取ったこの本を読んだ時に、日本社会で家族をもち、子どもを育てるということのリアルはあの歌詞には本当はなくて、ここにあるのかもしれない、と思った。
ちょっと長いんだけど、この長い記述でなければ、子育ては語れないんじゃないかなと思うのです。
夕方、保育園へお迎えへ。上の娘の教室を覗くと、私の顔を見るや否や「パパのほうがよかった!」とだだこね開始。これは結構いつものことなのでなんとなく眺めていたが、今日はちょっと筋金入りの様子で先生が何を言っても教室から出てこようとしない。「無理やり連れてきてもいいですか」と先生に聞かれ、抱きかかえられて教室から出された上の娘。しかし今度は玄関の隅でうずくまって「パパがいいの!」と連呼し大泣き大騒ぎ。もう保育園中に響き渡る声。私も疲れていてなんとかする気も起きず、しばらく傍観。うちでは「パパ」と呼ばないのに、保育園では出て来る「パパ」という言葉にもう笑えてしまう。何を言っても何をしても駄目で、私も玄関にうずくまる。大騒ぎのまま30分経ったところ、何かの拍子で帰る気になったらしくやっとおんぶに応じてくれる。家に帰る道中はなぜかニコニコ笑顔に。私はあまりに疲れてしまったので、上の娘に「お母さん疲れたから、夕飯無しでもいい?」と聞くと「だめだよ!ないておなかすいちゃったの!」と言い出す。もうこれには笑えもしなかった。本当に疲れたのでプリキュアのレトルトカレーを夕飯に。そしてまだお腹がすいているというのでコーンフレークを出してやった。すると最後にはまた水をコーンフレークにかけて遊び始めたので、そこで何かが切れて、石田さんが帰ってきた20時過ぎまで、私は屍のように横になっていた。誰かここから出してください。
「誰かここから出してください」の一言に胸がぎゅうっとなる。
午前中、石田さんもいるのに、下の娘にブチ切れ。シンクに水を流して遊んでいて、洗ってないコップで水を飲もうとしたり、洗剤をたくさん出したり。上の娘もそれに便乗して台所でおままごとを始めようとする。片付けや料理をしなければいけない私はつい苛々して、大きな声で怒鳴りつける。「駄目って言ってるでしょ!」と言って琺瑯のコップを下の娘のすぐ側でシンクに投げつける。下の娘が怒った目で涙を浮かべ、こちらを睨んでくる。傷つけてしまったということに気づいて、自分が情けなくなる。娘達はすぐに気持ちを切り替えてか、石田さんの方へ行き遊んでいる。もう何もかもが嫌だと思いながら、どうして自分はこんな風にしか出来ないんだろう?と考える。ふと思いついたのは、私のやりたいことがどんどん出てきてしまっているということ。子どもたちのいる時間は、自分のやりたいことはもちろん、メールを少し返そうとするのも邪魔されたりする。私って何だったんだっけと思う。私はただお母さんだけをしたいわけじゃない。でもお母さん業を一番にしなければいけない?なんだか、これまでの育児で失った時間を今必死に取り戻そうとしている気がする。
そんな日常の1ページがひたすら日記帳となって記述される。人の日記帳をこっそり隠れて読んでいるようないたたまれなくも悲しい気持ちになる。
そんな著者の様子を見て、保育園の先生が「お母さんしんどそうですがどうですか?」と声をかける。一度保育園で先生の前で植本さんが泣いたから、きっと先生たちもお母さんの様子を見ていたのだろう。
「お母さんしんどそうですがどうですか?」と言われ、ぽつりぽつりと話していたけど、あんなに大変と言っておきながら、何が大変なのか、うまく言葉に出来ない。記憶が薄い。
ここまで日々の日記で言語化している著者の植本さんですら、子育ての「大変さ」を言葉にするのはとても難しい。言語化が難しいのは、言葉のほぼ通じない相手と24時間365日一緒だから母親の言語化能力が下がっているからだし、子育てという業務は文脈なしに言語化するのがとても難しい業務であるからなのだと思う。
植本さんは、夫である石田さん(ECDというラッパーの方で、ちょうど先日癌でお亡くなりになっています)に離婚してほしいと何度も申し出ます。そして、好きな人もできます。
私は一人になりたい。石田さんに二回も離婚を申し込み、そして断られている。一度目は私に好きな人が出来たと告白した時だった。意を決して言ったものの、私は半分浮かれてニヤニヤしていて、それを聞いた石田さんもやはりニヤニヤしながら「そんなこと言い出すだろうと思ったよ」と言ったのだった。
大切なのは、夫であり父である石田さんはそれなりに家事もやるし育児もそれなりにやっている(おいおいと思う面はあるけど)そして、植本さんをずっと見守っているし、植本さんの精神の揺れをずっと受け止めて、そばにいる。でも、植本さんの持つ「家族の理想像」に置かれた瞬間に、石田さんがくれる愛が薄まる。
自分を苦しめているのは明らかに結婚していることにまつわるあれこれで、もちろん育児もその一つにある。それでも子どもを石田さんに押し付けようとは思えない。私が引き取って一人で育てるのも不可能だ。実家に戻る気もさらさら無い。(略)家族とは一体なんだろう。私はいつからか、誰といても寂しいと思っていた。それは自分が家庭をつくればなくなるんじゃないかと思っていた。自分に子どもが出来れば、この孤独は消えて楽になるんじゃないかと。でもそれは違った。私の中の家族の理想像はその孤独によってより高いものになり、そして現実とかけ離れていることにしんどさを覚えた。自分の苦しさは誰にも言えなかった。
わたしは、家族というものの呪縛や、お母さんというものの呪縛にとらわれて身を動かせなくしている人を見るたびに、家族という謎の物体を壊してしまいたいなと思う。
これまでは、「制度上の家族という枠組みのなかでも、家族などという概念はぶち壊せるし、自分たちで関係性をイチから築けるよ」ということを伝えたくて、夫と、そして娘と生活をつくってきた。そしてとても3人暮らしは楽しくて、面白い空間になったと思う。3人の成長する課程のなかできっと空間は変化するけど、その成長にもチューニングしてゆけるんじゃないかと思う。
でも、この本を読むたび、そして友人知人の話を聞くたび、制度上の「家族」である以上、そこに囚われてしまうひとは多いのだと改めて痛感する。理想像に縛られてしまう。そして精神的に病んでしまう。家族、お父さん、お母さん、子ども、という理想的役割は、旧来は役割定義されたほうが社会的に効率がよく生産性が高かったのだろうけど、現代は役割定義されると非効率で生産性が低い。個々人の持った興味関心、強みやスキルに合わせた活動を行わないと、これからの社会で生き残れないからだ。
やっぱり家族という謎の物体を壊してしまったほうが、イチからの関係性を築きやすいのかもしれない。
私がいまつくりたいのは、ひととひとが血縁関係も婚姻関係もなく、価値観で繋がりあえる「世帯2.0」である。美味しいごはんとか、自然とか、本とか、心揺れるアートとか、そういうものを媒介とした世帯2.0をつくりたい。そこにきっちり自分のチューニングしていかなきゃ、と思った。
植本一子さんのこの本は、今回は子育てのトピックスを抽出して書きましたが、多面性のある本なので子育て本というわけではまったくないです。まだ読んだことはないですが、先日お亡くなりになったECDこと石田さんの闘病生活も含んだ『降伏の記録』も読んでみるつもりです。