社会の「こうあるべき」は、成果を出せなくなった。戦後日本の成長を支えた【決められた人生のルート】に乗っ取っても生きて行けない人が出て来るようになった。
だから、個人の「こうあってもいい」が増えてきた。こういう社会の身の置き方もあっていいんじゃないか。こういうのもありなんじゃないか。悩める個人がそれぞれの答えを出してゆく。答えを出しては、社会の変化を見てその答えをリライトする。
でも、その個人が力を持ちすぎて、SNSで、インターネットで、個人がその人なりの「こうあるべき」を発信する。その人の正義。それ以外の選択肢を排除するかのように。むしろ、社会の「こうあるべき」同調圧力よりも、もっと鋭く、高速に、人を傷つけていく。やわらかに「私はこうしてるよ」と発信するだけでよかったのに。
「こうあるべき」は力を失った。なのに、「こうあるべき」は別の形で力を持ち、溢れている。この社会に身を置くってなんて難しいことなんだろう。
TwitterやFacebookでたまに見かける熾烈な言葉のやり合いは、当事者でないのに目にした人のエネルギーを失わせる。多様な個人がともに生きることって不可能なんだろうか?
先日、小野美由紀さんの描く『メゾン刻の湯』(ポプラ社)を読んだ。銭湯を舞台に、社会に馴染めずにいるひとりひとりの共同生活を描いた小説。すごく読みやすい。漫画を読んでいるような爽快感があって、でも一つ一つのエピソードにはリアリティがあって、希望があった。
主人公?にあたるマヒコは、どうしても就活する気になれず内定がないまま大学を卒業する。そんな彼が卒業式に出て、大学の構内を出るところから始まる。何者でもないし、何者だというレッテルも貼られたくない。自意識だけが浮遊しては、打ちのめされる。
金髪のベンチャー企業社長タカツキに「すごいじゃん」と声をかけられ、この社会で価値を出し、自分にないものを全部もっているように見えるタカツキに質問されたときの、苦々しいマヒコの独白が、彼らしい。
肉厚の頬をてからせながら、息も吹きかからん距離で彼は僕の目を覗き込む。何かを値踏みするように。同時に、こいつに話しかけられて喜んでいる自分を発見して死にたくなった。
マレーシアと日本のハーフ「蝶子」も、片足を失った美容師の「龍くん」も、子どものころからレッテルを貼られ続けてきて、それに本人なりの方法で抗ったり、諦めたり、応えてたりしている。
「ああやって、自分が意図しない形で好き勝手にラベリングされるのってさ、なんか、そればっかりになる気がしてさ。”そう”な俺と”そうじゃない”俺があったとして、(略)”そうじゃない俺”はどこに行くの? って感じよ。俺だって、今でこそ慣れてさ、むしろそれを利用してやるぞー、みたいなとこあるけどさ、それでもやっぱ、きついときあるもん。『障害者タグ』みたいなの、わかる? 付けられんの。それだけで判断されるっていうのはさ、自分に関するそれ以外の部分を、全部丸ごと無視された気になるんだ」
最終章の展開にはとても驚いたけど、なにより胸が痛かったのは「事実を並べているのに、事実でない雑誌の記事」だった。まさに自分が意図しない形で好き勝手にラベリングされていて、人の息の根を止めるほどの威力があった。
この共同生活のなかで、マヒコにとってラベリングがとても意味のないものになってゆく。ラベリングをやめてその人をひとりの人として見るとき、絶望的にその人が理解ができないという現実に直面する。そして、理解できなくても同じじゃなくても、ともに生きられるという希望に出会える。多様だからこそ、要らない存在でもない。要るか要らないかで測定する必要がもはやないからだ。
最後に、マヒコは言う。
「俺たちは、ただの風呂屋だぞ」と。
自分に自分で思い切りラベリングしちゃうとき、”そう”な自分も、”そうじゃない”自分も含めた自分でこの社会を歩んでいけるんだと思う。この社会にいる人は全然ちがう。みんな違う。圧倒される性癖もあるし、考えられないものを食べ物とするひともいる。理解できないし、わからない。
でもともに生きられるし、ともに生きることを諦めたくない。
湯が溶かしたらいい。人に張り付いた服は全部とって、正義もこうあるべきも全部とって、ともにそこにあたたまれたらいい。
流れる空気は、表紙のような青さ。爽快感ある一冊なので、ぜひ手にとって読んでみてください。私個人的には小野さんのエッセイ『傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった (幻冬舎文庫)』の六本木の描写が好きで、ワキガエピソードとかすごい懐かしさがこみ上げます。笑。そこに「風呂なし生活のススメ」という章があるんですが、銭湯が舞台なのはここから来ているのかなあ。